29 9月

「人間として生きる」

我々は、苦悩して涙する時がある。まさに、それが人間として生きていることを証明している。時として、病気することもそうである。そこでは、人間として生きていくう上で、頭と心に混乱を招く時があるが、「人間」になるための人間の課題が凝縮されているから、私はそのことに感謝する。
我々の世界で、私が気づかされたのは、自らの病気に対して、自らが「偏見」をもっている人たちが存在していることであった・・・家族を含めて。
たしかに、未だに、そのようにせざるを得ない未熟で無知な地域社会の現実があるのは事実だ。それは否定できない。そうであるならば、大胆に「偏見」をもってして、「偏見」を征する生き方を「個」としての自らからが、クリエイティブしたい。そうでない限り、いつまでも、人間である自分を人間の後ろと地域社会の後ろに自らの存在を隠すことになる。その生きづらい生き方が、かえって、病気の回復と人間性の成熟的回復、そして、未熟で無知な地域社会の変革をおくらせる。内的にも、外的にも、人間本来の柔軟な頭と心を取り戻して、それらもろもろの束縛から解放された自由な生き方を選択・決断して、共に歩んでいこうではないかと悔い改めをもって伝えたい。
我々は、「個」としての「人間」である。それ以外、何者でもない。